あそこにシマウマがいます。ちょっとさわってみましょう。
「木がさわって欲しそうにこちらを見ている」
「さわってみる」
腐敗が進行しているおかげで、虫たちの棲家となっていた。驚かせてごめんよ〜〜。
今回は、五感のひとつである「触覚」をテーマに散歩をしていきます。
あまりにも身近すぎて、普段意識することが少ない「触覚」。しかしだからこそ、普段の散歩をより面白くする可能性を秘めている重要な感覚だと思うのです。
残念ながら、触覚を直接伝える技術はまだありません。なので間接的に、文字や写真や音からその質感を感じていただけたらと思います。
さわる技術
やってきたのは「練馬駅」
漫画「タッチ」の舞台にもなっている練馬区。勝手に住みやすい場所なのではと想像します。
昼の飲み屋街には独特の雰囲気がありますね。いつもより太陽が眩しく感じます。
ナイスモザイク!
「バランス」という観点だけでみるとこっちの方が良いな
「すこやかセンター」って名前、なんてステキなんだ。やっぱり練馬は「住みよいまち」なのだ。
さて、
「触覚」をテーマにと言ってみたものの、中々触ることができない。触るものが無いのか、我々にそれが見えてないだけなのか。
これは一度腹をくくらなければ普通の散歩になってしまうな。よぉ〜し。
おわかりだろうか。指を揃えて「ピトっ」とさわっているこの感じ。
そう、私たちは外にある物を触ることにかなりの抵抗感を抱いていたのです。開始早々、行き詰まってしまった。
美学者である伊藤亜紗さんは、人が人にふれることの倫理にかんする本の中で「さわる技術」について述べています。まず、伊藤さんは次のように言います。「さわる対象に客観的な性質があるのではなくて、さわるという身体運動の産物として、対象についてのある情報が引き出されてくる」と。
そのため、触れ方をそれにふさわしいものに変える「さわる技術」というものが重要になってくるのです。さわり方が情報の大部分を決定する。
なるほど、さわるという運動を介さなければ引き出されない情報があるということですね。
なので我々は、「えいっ」と勇気を出して物にさわってみることで、心の壁をぶっ壊していく作戦に出ることに。
鉄棒の端、、、、
ぎゅっ。
そういえば、昔はこの電柱のイボイボもさわってたよなぁ
この手の塀もさわってたよぁ!
「こんな風にやってなかった?」と同行者のごしき君。やってたやってた。指を人に見立てて、困難を乗り越えさせてた。
勇気を出して物に触れていくうちに、段々と思い出してきた。触ること!
そして見えてきた。触る物!
「昔はやんちゃしてたなあ」
今の公園、「ロケこう」と呼ばれてるみたい。毎週金曜日子供は無料でご飯食べられる「こども食堂」
地域の人の暖かさにも触れていこう。
しっかり凹凸がある。これは誰かの仕業に違いない。引き続き捜査を続ける。
ドアの前がゴミ捨て場と化している。アプローチが新しすぎる。
いい感じにタガが外れてきた。
この紐!握ってこすって摩擦熱を感じていたよね。
こうやってガジガジやってたよねとごしき君。ごめんそれはやってなかったわ。
よし、こいつも持っていこう
一面のボスみたいなやつが現れた。よ〜〜し触っちゃうゾ〜〜。
ごしき君がとどめの一撃を。オシャレ好きな彼にとって遊具に抱きつくことは並大抵のことではなかっただろう。背中から哀愁を感じますね。
ボスを倒した後に出てくるボスみたいのが現れた!
こうやって走って、指をプルプルプルプル〜〜〜〜〜!!!!
エクセルに恨みでもあるのだろうか、彼のコンセプトからは想像もつかないほどのアナログ感だ。
犬!もうちょい右!
そんなこんなで散歩コースに乗っかったようだ。
わははは
私たちは、勇気を出してものに触れていくことによって心理的な壁をぶち壊し、原体験のようなものを思い出していきました。「さわる技術」は身につけられてないし、ちょっと思ってたのと違うけど楽しいからいいや!
すごい鳴き声の鳥がいたので共有します
いろんな「触れる」
触覚を存分に使えそうな場所に来た
と思ったら、道が綺麗すぎてなにも触れねえ。整備された道は、触覚という面では非常に情報量が少ない。
最後の「木が泣いています」は、AIには作れないだろう。
おっとっと!トイレに寄る途中に遭遇。危うく踏むところだったよ!
しかし道のど真ん中にいるコイツをほっとくわけにはいかない。端につれてってあげよう。(めっちゃこわい)
まずは背中をなでなですることで警戒心を解く。
うおおおおぉぉぉ!
ぎゃあああああああ!!!
くそ、痛すぎて手を離してしまった。見てくださいこのファイティングポーズ。完全にボクサーのそれだ。これはちょっと私には手に負えないので、そっとしといてやりましょう。
カマキリもどきもいたし、とっとと公園を出よう。
この色とりどりの椅子を叩いて気分を落ち着かせます。
思わぬ組み合わせなはずなのに、情景に溶け込みすぎている
気づいたら私たちは、ごしき君の母校に向かっていた。ちょっと寄っていこう。
思い出話と一緒に一通り案内してくれて、とても不思議な気分になった。自分にとっては何でも無い風景が、彼にはどう見えているのか。この埋めようのない距離感が、もどかしくも嬉しく、尊い。
彼が所属していた応援団の練習場所。ほんとにこんな場所で??ってところ。でもそれがいい。
お昼も、大学のすぐ側にあるごしき君ゆかりのラーメン屋へ。
ジャマイカとラーメンという謎コンセプト、そして気さくな店主が迎え入れてくれた
そしてそれを差し引いても美味かった。
自然現象である説が急浮上した瞬間
読み取れそうで読み取れなかった。「定食」だけ1マスで収まっていることに物語を感じる。
まちでこういう生活の工夫を目にすると、そこに生きている人の暮らしを感じる。
ほらここにも。こうして紡がれていく暮らしの文化は、まちに表情を与えてくれます。
虫に触れ、友人の思い出に触れ、まちに触れる。直接触れること以外にも、「かかわる」という意味で多くのものに触れることができました。
子どもに倣え!
豊玉公園にやってきました。子どもたちで大変賑わっています。
通称「たこ公」と呼ばれているに違いない
この公園の地図は、視覚障害のある方への配慮がなされていますね。たこも、すべり台というカテゴライズからは逃れられないか。
少し休憩しながら、子どもたちの遊びの様子を見てみる。すると衝撃的なことに気が付きます。
もう、触る触る。これでもかってくらい、子どもたちは意味もなく常に何かに触ってる。ブランコの柵に身体を巻きつけたり、友達と話ながらも手すりをスリスリしたり、走り回りながらなんか持ってたり。
そして何より驚異的なのは、これらの行為がほぼノールックで何の躊躇もなく行われていることです。
どうやら私たちが見習うべきは、この子どもたちの無邪気な、モノとの絡み合いなのかもしれません。
このステキな作品も、触る行為の賜物でしょう。
公園を出て歩いていると、小学校から子どもたちが解き放たれていくのが見える。下校時間だ。
さわることの師匠たちは、電柱やガードレールに何の前触れもなく「シュッ」と触る。歩くスピードを緩めずに、ノールックで触っていく。
歩く、いや生きるという動詞の中に、さわるという行為が含まれている。彼らを見ているとそんなことをすら思いました。
ねこが一番、ふれる技術が求められるのかもしれない
そんな違う言い方で3回も言わなくても・・・
いかがだったでしょうか。今回は「触覚」をテーマに散歩をしてみましたが、普段ものを触ることから遠のいている私たちにとっては、どこかぎこちなく、どこか危うい感じのする散歩となりました。
それでも、自分達はいろんなものに触れて、いろんなものに触れないように生きていたんだな、と実感することができました。触れることで触れていないことに気づく。
みなさんも、散歩の途中でちょっと勇気を出して、何かに触れてみてはいかがでしょうか。
伊藤亜紗さんの本はこちらです。
コメント
コメント一覧 (4件)
指をプルプルプルーというところに共感を覚えました。
汚いから、危ないからと大人に言われ、その意味を理解していくうちに、何かに触れるということを自然とやめていたのかもしれません。
生きる上で【触る】という感覚を改めて大事にしていきたいと思いました。
聖闘士星弥さん
コメントありがとうございます!
指をプルプルさせている時、すごく懐かしい気持ちになりました。触ることで蘇る記憶があるのかもしれません。
一面のボスみたいなやつの中に入ってみたいです。赤くて丸いからです。
とすみのとそさん
コメントありがとうございます!
ふと、赤くて丸いアイツの中に雨の日に入ったら面白そうだなと思いました。
ぜひ。