四ッ谷です。四谷でもあり、四ツ谷でもあります。
どうやら、[ヨツヤ]の表記は特に定まっていないみたいです。
なのでここではとりあえず、地名を指す場合は「四谷」、駅名は「四ツ谷」、全部ひっくるめて言う場合は「四ッ谷」と表記することにします。
そんな四ツ谷駅は、個人的にとても好きな駅です。丸の内線に乗っていると、それまで地下を走っていた電車がこの駅だけ地上に顔を出し、急に開けた景色になるからです。なんだか救われた気持ちになります。
よっぽどホテルか何かと間違われるのだな。
以上、しんみち通りでした。
今回もまた、車内に突如差し込んだ光に導かれ、気づいたら散歩が始まっていたというわけです。
ぬるっと始まってしまったので、いつも以上にテキトーに歩いています。今回は、魅力溢れる街四ッ谷の断片をお見せできればと思います。
チューリップ?ここに?
イタリアンのお店のそばで生えている雑草。換気扇で常に揺れている。写真じゃ伝わらないけど、ほんとうにずっと揺れている。
ちゃんと全部折れています。
というか、四ッ谷にこんな路地とか住宅街があるなんて知らなかった。楽し。
階段がおしゃれすぎる。串かつみたいに中に芯が入ってるってことなのかな。体重かけた時に回転しちゃわないか心配だ。
この手の石にしては粗くない?コーヒー作ったら湯通りが良くてスッキリと飲めそう。
いや、そのメッセージを看板にするのよ。
「 タ_ 」この伸ばし棒の位置、難しかっただろうな。
レトロ感漂うカラフルなビルの内部。奥の「オフビート」という店がまた味わい深い。
トンネルの中に何やら不穏な「お」。「つ」「ぎ」「は」を発見してなくてよかった。
散歩をしたのはまだ桜が綺麗に見れた頃。こいつ、気持ちよさそうだな。「ファ〜〜」って
言ってそう、あ、ここでも。みんなお昼寝してるんだね。
私たちの想定を超えたモノの組み合わせを「モノの邂逅」と呼んで集めています。よろしくお願いします。
ここ一帯をすごい適切に表してる!びっくりした。帰りの電車ではっぴいえんど聴こう。
これもモノの邂逅です。町はモノにとっても思いがけない出会いの場です。
この日は晴れてましたが、風がとても冷たかったです。
新生活への大きな期待と小さくない不安が入り混じる超ソワソワ状態だった私は、実は途中何度か帰りたくもなりました。
しかし、出会いの連鎖は続きます。
これは入らないわけにはいかないですね。不意のコーヒー屋には、入らないわけにはいかないのです。
店内は意外に広く、洗練された喫茶店という感じ。女性の店員さんが「今日はたまたまここに来られたんですか?」と聞いてくれたので、「たまたま四ッ谷に来て、ふらふらしていたらここに」と正直に打ち明けた。なぜか不思議がらずに「散歩は頭がスッキリしますよね」と教えてくれた。
店員のみなさん、ほんとうに素晴らしい接客でとても居心地が良かったです。ここがどこなのかわからないけど、また行きたい。
散歩の話をしていると、店員さんが、この辺りに映画『君の名は』のモデルになった場所があることを教えてくれました。これも行かないわけには行かないですね。実はここでようやく今日の散歩をブログに書こうと考え始めました。
どんなジャンルのギターを弾くのか気になるな。ファンキーなカッティングとかやっててほしい。
聖地を前に気が散って仕方ない。
肝心の『君の名は』を見たことがないけど、確かにあの階段だ。他にも写真を撮ってる人がいたし、間違いなさそう。
聖地巡礼中なのに、気を散らさないでくれよ!
なあって!
というかあんな大作の映画の舞台をここにするの、カッコ良すぎるだろ。
なんでもない場所をなんでもある場所にすること、目指したい。
英語、スペイン語、そしてピアノが習える空間。中からはヴァイオリンの音がしました。
公園のゴミ箱ほど貴重なものはないからな。思わず撮ってしまったよ。
エイゴリアンみたい。じゃあ近くにスペインゴリアンも?
これ、過去に最悪の事態が起きたんだなきっと
フォントの見た目が読んだときの音と完全に一致している
なんだろうな、この違和感。ポケモンの世界をそのままリアルにしたみたいな。
ピンポイントすぎるライフハック。街に溶け込みすぎている。
今回は、街を事細かに見ていくというよりは、非常に断片的な四ッ谷をお届けしました。そのため「もっとおもしろいものいっぱいあるのに!」と思われた方もいるかもしれません。ぜひ、コメント等で教えて下さい!
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ある街について、どれだけ言葉を尽くして記述したとしても、その街を説明しきることは不可能です。なぜなら、その日の気分や体調によって見え方が異なるし、人が違えば感じ方が異なるし、街は刻一刻と変化しているからです。散歩をすると、現実世界が言葉よりも豊かであることを痛感します。
それでもなお、こうして散歩について書いているのは、その街の情報を伝えたいからでも、参考になるような視点を提供したいからでもありません。私がブログを書くのは、そんな「言葉よりも豊かな現実」と出会い直すための勇気を、少しでも受け取ってほしいという想いがあるからです。現実の語り得なさに怯むのではなく、むしろみなさんの語りが現実を作っていくような、そんな散歩の輪が広がればいいな〜と。
そう考えると、今回のような記事でなくとも、散歩の記述全てが断片的でしかありえないということになります。部分的でしかないものを部分的なものとして、「私」という主体を取り除くことなく提示すること。それが、散歩のブログの最も尊い価値であると、私は確信しています。
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