散歩中にモノの不思議な組み合わせを見ると、それらがまるで生きているように思えてくる。
もしかするとモノにも足があって、私たちの知らないところでトコトコと歩いているのかもしれない。
モノ同士が対話し、共鳴し、そして路上に馴染んでいる。彼らは整備されつつある路上でさえも、力強く自らの生を表現している。
#モノの邂逅には、私たちに本当にそう思わせる魅力があります。
「邂逅」… 思いがけなく出会うこと。めぐりあい。(広辞苑)
しかしそうは言っても、モノたちは人の影響も大いに受けているようです。ここでは#モノの邂逅を、人々の関わり具合によって3つに分けて考えてみます。
自然に集まったモノ
人の手があまり介在せずに出会ったモノたち。あるいは、私たちが「自然」と聞いてまず思い浮かべるモノたちでもあります。
例えば、路上に生えた雑草は、植物と地面の出会いと考えることができます。あるいはもっと大規模に考えて、惑星同士の衝突も「自然に集まったモノ」と表現することができるかもしれません。
ただ、普段私たちとの関わりが薄いため、見つけるには少し想像力が必要かもしれません。実際、#モノの邂逅として取り上げることも少ないです。
文化的に集められたモノ
一方で、私たちは生活に多くのモノを取り入れ、うまく活用しています。
これらは、人間が積極的にモノを活用することで生活を豊かにしているという、ある種の文化の現れです。
元々は全く別の用途で使われるはずだった物が、新たな形で再利用される。これらは、そこに住む人たちの知恵によって生み出されます。
大量消費社会が進む中で、私たちがこのようなモノの邂逅から学ぶことは多いでしょう。
「とりあえずここに」的に集まったモノ
自然的な出会いと文化的な出会い、どちらにも還元されないようなモノの邂逅もあります。
部屋の片付けをしている時、どこに置いたらいいかわからない物を「とりあえずここに置こう」とした経験はないでしょうか。
それは路上にも現れます。
これらの特徴を見ていくと、共通点が浮かび上がってきます。それは、「なんとなく収まっている」ということです。なのでもしかすると、路上で見ても違和感なくスルーしてしまうかもしれません。
私たちは、意識してモノを配置しているように見えて、実は無意識的にも同じことをしているのかもしれません。あるいは、環境がそうさせていると表現することもできるでしょう。
このように考えると普段歩いている道は、私たちが作り上げたものであるだけでなく、モノによって作り上げられているようにも見えてきます。ちょっと大袈裟でしょうか。
邂逅いろいろ
今回はあえて3つに分類しましたが、もちろんどこに分類していいか分からないモノの邂逅はたくさんあります。これらはどこにも分類できなかったり、どこにでも分類できたりします。
このように、実際には邂逅における自然と文化の度合いはグラデーションのようになっています。
つまり、モノの邂逅を画一的に自然か文化に分けることは、むしろ非常に困難なのです。
「自然か文化か」ではなく、このモノたちはいかにして交わったのかについて、その過程を想像したり、思いを巡らすことに「モノの邂逅」の真価があります。このようにして考えると、普段見慣れた街でさえも新しい発見があるかもしれません。
#モノの邂逅をみつけることは、決して難しいことではありません。しかし、彼らはあまりにさり気なく路上に現れるため、気をつけないと見逃してしまいます。
みなさんも是非彼らを探してみてください。
ハッシュタグ#モノの邂逅でのつぶやきも楽しみにしております!
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