こんにちは。likkaです。
この記事では、なぜ私が散歩をするのか、
なぜ散歩が「散歩学」になるのかについて書きたいと思います。
「散歩+学だと!?けしからん!散歩は誰もが自由にできるからいいのじゃ!そんな堅い言葉をつけてはならん!」
と怒らずに、どうか少し読んでいってください。
現代の中の散歩
今、散歩に注目している人が多い気がします。
散歩をするとリラックスできて思考が整理されるとか、健康にもいいとかよく言われます。
ちょっと運動ちっくになるとウォーキングと言ったりもしますね。朝の土手でよく見かけます。健康とか関係なしにも、友達と喋りながら道をぐるぐる歩いてしまっていた経験がある人多いのではないでしょうか。
また、SNSの発達に伴い散歩の多様性が増してきているようにも見えます。
TwitterやInstagramには散歩で発見したものを投稿しているアカウントが多く存在し、その中にはブログをやっている人もいます。
↑例えば「サンポー」とか。
私はサンポーを読んで育った人間と言っても過言ではないです。面白すぎます。
そのほかにも、隠れ散歩マスターなる人は多くいると思いますし、「趣味は散歩です」と言う人もいるでしょう。
現代は、いろんな人の散歩観をのぞけるとてもいい時代だと思います。
さて、ここで質問です。
皆さんはなぜ散歩をしますか?
そこに道があるから。リラックスするため。友達とお喋りが楽しいから。季節を感じたいから。趣味だから。ブログを書きたいから。歩くのが好きだから。。。なんでもありだと思います。
↓↓是非コメントで教えてください☺︎↓↓
散歩に正しさとか、純粋さとかはないと思います。
その時の感情、目的、疲労、天気、時間、道、音、人、などなど、様々な要因が重なって散歩が始り、終わる。それだけのことだと考えています。ただ、皆さんが何を考えて散歩をしているのか、それは非常に気になるところです。
私が散歩をする理由
私もブログを書くことをきっかけに、自分がなぜ散歩をするのかを考えてみました。
私が散歩をするのは、2つの意味で人に出会うことができるからです。
1つ目の意味は、人に出会うというそのままの意味です。
町へ出れば様々な人とすれ違い、お店に入れば店員さんとやりとりをし、住宅街ではお風呂ではしゃぐ子供の声が微笑ましい。たまに声をかけてくれる人もいます。普通に嬉しいです。
ただし、よく町ブラロケで見るように社交的に振る舞ったりは基本的にしてません。私が散歩している時は、できるだけ自分の存在を消すようにしています。
ここではおそらく、そこに人がしっかりと生きていることを確認しているのだと思います。知らない土地で人々がどのように衣食住を営み、道を歩き、文化や社会を形成しているのかを自分の目で確かめたいのです。
2つ目の意味は、1つ目とはむしろ逆の行いによって人に出会うことです。例を2つ挙げて説明します。
例1:ちゅーい看板
この日は一緒にこのサイトを運営しているごしき君と二人で散歩をしていたのですが、この看板を見つけた時には衝撃を受けました。
これは一体なんのキャラクターなんだ。なぜ「ちゅうい」ではなく「ちゅーい」なのだ。なぜ電柱に括り付けられているのだ。そもそも飛び出すべき場所が周辺にはないではないか。どうして、どうして、どうして!!
その時に感じていたのは、この看板を作った人の行為そのものに対する温かみでした。私たちは今看板を目の前にしているが、実際には看板を作った人の営為を感じている。
現代社会の中では道や看板は段々と整備され、余計なものが排除された町が出来上がってきているように思えます。しかし、この「ちゅーい看板」はそんな状況を吹き飛ばすような、人間の営みを直接味わせてくれる看板なのでした。
このような人に出会わずして人を感じるような視点は、散歩をしていく中で次第に身についていきました。
例2:日暮里舎人ライナー
2008年に開業して以来、地元の人に愛されている「日暮里舎人ライナー」。モノレールみたいな感じで(正確には新交通システムというらしい)高架を走る。
そんな日暮里舎人ライナーの高架を見て、ごしき君が一言「これ人が作ったのすごいなぁ」と。何気ない感想のようですが、僕にとってはとても重要に思えました。
確かに、この巨大な建造物は人が作ったとは想像もできないほどに大きく、見事なまでに多くの障害物を避けながらカーブを描いている。現代社会ではこのような巨大な建物が増えてきており、いちいち人が作ったということを意識することも少なくなってきたのではないでしょうか。
しかし、あえてそこに人の存在を意識してみると、散歩の中で出会うものに対してまた違った感性が湧き出てくる。この巨大な高架も、人の手によって作られたということを意識することで人間の力への畏れのようなものを感じたり、静的な建築物が動的なものに見えてきます。
古いもの、新しいもの関係なく、そこに人がいたことを感じること。散歩はそのようなことを私に気づかせてくれました。こうした考えが生まれたのも、散歩に特有のミクロな視点あってこそだと思います。
このようにして、私は散歩を通して人に会わずして人に出会うことの喜びを知ることができたのです。
ここで立ち現れてくるものに対するイメージは、単なる「人工物」といったものではなく、もっとアナログな生きているイメージに近いです。
人工物と自然が絡まり合って町ができてゆく。そのようなイメージを持って散歩をしています。
終わりに:散歩学に向かって
ここまで書いてきた「人に出会うために散歩をする行為」は、ある意味人類学的な営みなのではないかと考えています。
人々の日常的な場面に入り込み、ミクロな視点からそこにある文化的なものを感じ取る行為。当たり前に思えることを、別の視角から改めて考えてみる行為。そこで感じ取ったものと自分の住んでいる街にあるものを比較してみる行為。。。
こうした小さな発見を拾い集めていくことから、街全体の本質のようなものが見えてくる気がします。
実際、人類学者は研究対象の社会で散歩をすることが多いと言います。私の散歩は直接人と対話することや人の生活に参与することこそないですが、散歩をしながらあらゆる場所に人を感じてみる、イメージするといったことを通して人を理解するような試みでもあります。
しかし、この散歩の考え方を「散歩の人類学」と表現したくはありません。これは私の好みの領域なのであって、他の多くの大切なものが欠落しているからです。
もしかしたら歴史好きの方なら「歴史」に出会うために散歩をすると答えるかもしれませんし、社会学専攻の学生なら「社会」に出会うためと答えるかもしれません。
そう、私たちは散歩をすることで歴史学者にも社会学者にも地理学者にも考古学者にも人類学者にも民俗学者にも哲学者にも建築家にも芸術家にもなることができます。あらゆるハードルが低いことも、散歩の特徴のうちの一つだと思います。
これらの学問を横断しながら、散歩の中で向かってくるものを全身で受け止めること。散歩をしながら考えるのではなく、散歩で考えること。この考え方は「散歩学 sampology」なるものにつながる可能性があると思っています。
もちろん散歩を高尚なものにしたり、多様な散歩の形態を一元的なものとして捉えることは意図していません。人の数だけ散歩の考え方があると思ってます。もし散歩学が成立するなら、そのことを含めた「学」になるべきだと思います。
「散歩学 sampology」はまだ、冗談まじりの妄想でしかありません。そもそも今の私に「散歩学」を構築する力量はないです。ですのでこれからゆっくりと、散歩学に向かって散歩をするように考えていこうと思ってます。あるいは皆さんのサンポロジーから何か学べたらと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。コメントお待ちしています。
コメント
コメント一覧 (4件)
私は、散歩を瞑想の一種だと考えています。瞑想の定義はよく分かりませんが、脳内の雑念の一切を捨て、今そこにある自分に集中することだと思っています。(完全に自説ですが。。)今そこにある自分とは、周りの環境に対して相対的に提示されますから、瞑想するには周囲の環境(音や触感や景色)を観察して感じることが不可欠だと思っています。その意味で、散歩は瞑想になりうると考えます。likkaさんがおっしゃる「散歩の中で向かってくるものを全身で受け止めること。散歩をしながら考えるのではなく、散歩で考えること。」という、散歩への態度も非常に共感できます。私は散歩しながら何か他のことを考えることはありません。散歩のために散歩をします。発見はありますが、それについて深く考察することはありません。観察したもの聞こえたものをそのまま受け止める。そうすることで、今ある自分という存在がより際立って感じられますし、それが散歩の真髄だと信じています。
ここまでつらつらと書いたものは、散歩好きな私が「私がなぜ散歩をするのか」を分析した結果に過ぎません。急になんなんコイツと思われるかもしれませんが、記事を読んでふと散歩について考えてしまった次第ですので、お気にせず流し読みしていただけると幸いです。
かつを様
コメントありがとうございます。かつを様の言う「瞑想としての散歩」「散歩のための散歩」、非常に共感できます。
私が散歩を始めたきっかけも、そういえば心を洗うためだったかも知れません。
また、かつを様が散歩をする際に周囲の環境を意識されていることには感銘をうけました。
なぜなら、私も散歩とその周囲を知覚する五感の関係性について少し考えていたからです。
想像力あふれるコメント、ありがとうございます。力になります。
コメント失礼します。
likkaさんのサンポロジー、とくに「散歩の中で向かってくるものを全身で受け止める」という部分、とても共感いたしました。。。
共感ついでに自論を展開させて頂くと、わたしは、自分自身が、主観と客観によって成り立っていると思っています。見る、と同時に、見られる、その引き裂かれた部分に本当の人間存在が開くと思うんです。
散歩をすることで主観的なわたしが客観に晒され、他者の存在が中に流れ込みます。自分が大きな流れの一部だと実感することは少し寂しいようですが、それはまた、帰納法的に自分自身の輪郭を捉えることにもなると考えています。展開、以上になります。
稚拙な文章にて、申し訳ございませんが、サンポロジーの一助となれば幸いです。
むら様
コメントありがとうございます(返信が遅れてすみませんでした)
むら様のコメント、何度も読ませていただきました。まだ咀嚼しきれていませんが、共感できると共に私の考えを広げてくださる大変深い内容だと思いました。
私の実感として、一人で散歩をすることはやはり寂しさを感じますし、自分の存在が曖昧になった気がして時々不安になるんですよね。むら様のコメントを読んでそのことを思い出しました。「他者の存在が中に流れ込む」「引き裂かれた部分に本当の人間存在が開く」、なるほどと思いました。私がなんとなぁく感じていたことを言語化してくださり、とても嬉しい気持ちです。これから散歩をするうえで、これらの言葉を大切にしたいなと思いました。
ありがとうございました。